【 ストーリー 】


記憶を辿っていくこと数週間…あった。そのとき確かに感じたごく僅かな心の「ゆらぎ」 のようなもの。これまでに感じたことのない不思議な高揚感…。
「もしかして…でも何で今さら?」
優子の心に変化の兆しを与えたもの、その閉ざされた心に響いてきたもの、それは…
ー音楽。
もっと端的にいえばピアノとの出会い。

最初なぜそんなにも心が惹きつけられたのか優子自身にもさっぱりわからなかった。だってピアノなんて別段珍しいものじゃないし、むしろごくありふれた楽器だ。今までだって学校の音楽の授業で先生が弾いているのを何度も目の当たりにして来たのだから…。
それがどうしたことかあるとき、何となく点けていたテレビから流れてきたピアノの音色に優子の心はがっちりと捕らわれてしまったのだ。
「綺麗なピアノ…すごく綺麗…私もこんな曲を弾いてみたい…」
無意識に、優子の口からそんな言葉がこぼれていた。

ーピアノを弾きたい。
優子の心に湧きたった初めての、優子自身の欲求だった。そしてこのときの優子には分からなかったが、それは同時に優子の心が、臨界を避けるために求めた心の救済措置でもあった。
しかし…
ここで今まで良しとしてきた優等生体質が邪魔をする。
優子は周囲から求められた要求に応えることには非常に長けている。とにかく求められたことをいかに「完璧に」、「そつなく」こなすか、ということを念頭にこれまで生きてきた。だがそうであったが故に、いざ自分の本当の、心からの欲求に優子自身どうしていいか戸惑っていた。自分のこの欲求をどうすればいいのか…そんな簡単なことが優子にはわからなかった。否、もちろん頭ではわかっているのだ。しかし実際に自分がそういう行動を取ったとき、どんな反応が返ってくるのかと想像すると、どうにもその簡単な一歩が優子には踏み出せなかった。
「わたしって…実は意外と不器用キャラだったのね…」
今さらながら自分自身のこれまで気付かなかった新たな一面に驚くと同時に、その不甲斐なさに優子は心底呆れてしまった。けれど優子の中で目覚めたピアノへの憧れはもう止められそうもなかった。そしてその結果が、
ー廃屋のグランドピアノ。

その廃屋は優子の住む街の外れにそびえる、ちょっとした山林の中にひっそりと建っていた。瀟洒な洋館で今でこそ住人もなく廃屋然としているが、なんでも30年位前まではその館にふさわしい外国人の一家が住んでいたそうだ。とりわけ一人娘のお嬢さんはピアノが上手で、その当時いつもこの館周辺にはピアノの音色が響いていたらしい。それが、ある日を境にその外国人一家は忽然と姿を消してしまったのだという。館と、お嬢さんのピアノを残して…。
当時それは勿論大事件となり警察も八方手を尽くし捜索したそうだが遂に行方は分からなかったらしい。そしてそれをいいことに無責任な噂がまことしやかに囁かれあったそうだ。某国のお姫様説なんてのはまだかわいいほうで、果ては狐にばかされた説、宇宙人説、妖精説、いやあれは河童の親子じゃった!などと力説するおじいさん等々…数え上げれば枚挙に暇がない。その後結局住人不在のまま館は放置され今に至っている…。
そんな昔話を優子が思い出したのがつい2週間程前のこと。そして意を決して館に忍び込んだのが10日程前。優子が忍び込んだとき、目的のものは確かにそこにあった。優子ははやる気持ちを抑えつつも、その30年分降り積もった埃を掃うのもそこそこにそれ、
お嬢さんのグランドピアノの鍵盤にそっと、手を触れた…。
ーだが、結果は冒頭のとおりである。

それでも優子は諦めがつかず、それからも度々こうして家族が寝静まったのを見計らっては家を抜け出し、今夜も音の出ないピアノの前で1人ぼうっとしているのだった。
と、その時ふと背後の空気が揺らいだような気配を感じた。優子はビクッとして辺りの様子を窺うが特に変わった様子はない…。
「…??…気のせい…だよね…。」
と思ったのも束の間、優子が後ろに向けた視線を正面のピアノに戻すといつの間にかそこには1冊の洋書のような本が置かれていた。…よく見ると楽譜のようだが…。

「!」
なに…コレ…こんなのさっきまで無かったのに!?
途端に怖くなった優子は取る物もとりあえず館から出ようと走り出したまさにその瞬間!
「なんだ、もう帰っちゃうのかい?これからレッスンが始まるっていうのに。」
誰!?
自分以外に誰か居たの?いやそんなはずない!人の気配なんてこれまでこの館で一度だって感じたことなかったんだから!もちろん今夜だって!しかしその優子の思いをあっさりと裏切るように背後に再び何かの気配…。

「なにもそんなに邪険にしなくったっていいだろう?」
振り返る!
…と、そこには1匹の黒猫がひょっこり佇んでいた。
「…って、なんだ猫か~、はぁ~もう脅かさないでよ~」
優子はほっと胸を撫で下ろした。いくら天窓から月明かりが差し込んでいるといってもこの暗がりだ。黒猫に気が付かなかったとしても合点がいく…。でもじゃあこの楽譜は一体誰が…。いや、そもそもあの声は…?
「ふん。猫で悪かったね。なんだい、君は私達を馬鹿にするのかい?」
「え?いや、別にそういうつもりは………………………って、
ネコ喋った!?」